それはGreen Greenから始まった

 

昭和46年秋、先輩で「チェリーズ」というバンドがフォークソング部を作ろうと部員を募集しました。「大妻大学フォークソング同好会」の誕生です。集まった20数人はSing Outに魅力を感じ「なっとう」という愛称と共に活動を始めました。

 

 

2024年秋 新規記事

創設の頃のお話を50周年コンサートを機会に直接伺いました。

 

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合宿

下村誠さんと出会いの6代目合宿記事(自由国民社/新譜ジャーナル/1977年夏)

夏合宿こだま

もちうた

日本語のうた

【コーチオリジナル】
(01)雲の流れに/和田,京極(#3)arr和田
(02)お願いがあるの/和田,フジイ(#1,3/定演)arr和田
(03)雨の音を聞いて/タマキ(#3,4,6,11/定演)arr和田
(04)4月の風によせて/タマキ(#3,4,10/定演)arr和田
(05)朝発ちの歌/タマキ(#2/定演)
(06)こがらしの子守歌/タマキ,田多井(#5定演)
(07)ジョニーにさよなら/タマキ(#5定演)
(08)とっておきの子守歌/タマキ(#9定演)arrモヒ
(09)青春の門/五木寛之,田多井(#6定演)arr田多井
(10)三番町の子守唄/田川律,藤井(#7定演)arr藤井
(11)三番町の子守唄/田川律,下村誠(#11定演,#7-9近代)arrアユキ
(12)片想い/下村誠(#7定演)arr西本明,下村
(13)自然に笑って/下村誠(#8定演)arr下村
(14)We like music/下村誠(#11定演)arr下村
【カバー】
(01)お江戸日本橋(#1定演)/arr藤井
(02)竹田の子守唄/(#1定演)arr藤井
(03)赤い花白い花/(#1定演)arr藤井
(04)砂山/(#7定演)arr藤井
(05)達者でな(#8定演)arr藤井
(06)電話線/矢野顕子(#5定演)arr
(07)想い出の散歩道/矢野顕子(#7)
(08)トキメキ/矢野顕子(#8定演)
(09)ジプシーソング/西岡恭蔵(#8定演)arr藤井
(10)果てしなき旅/大塚まさじ(#7)
(11)ゴーストタウン/児島鉄平(#8定演)
(12)サーカスにはピエロが/ディランセカンド(#7定演)arr藤井
(13)Babyもうすぐ帰るよ/有山淳司(#9定演)arr藤井
(14)蝶々さん/細野晴臣(#9定演)arr池田
(15)島の娘/チャクラ(#9定演)arr藤井
(16)イトホニ/チャクラ(#11定演)arr藤井
(17)すべての人の心に花を/喜納昌吉(#9定演)arr藤井
(18)街行き村行き/西岡恭蔵(#10定演)arr 駒沢裕樹
(19)絹街道/細野晴臣(#10定演)arr駒沢裕樹
(20)雨はいつか/センチメンタルシティロマンス(#11,12定演)arr下村誠
(21)花いちもんめ/はっぴいえんど(#12定演)arr下村誠
(22)風をあつめて/はっぴいえんど(#12定演)arr下村誠

各代の定演楽曲はパンフレット紹介ページ参照ください。

7代目志賀高原

8代目合宿帰り三番町着

10代目

1代目、レコーディング参加

1代目、明治大学と参加レコード
1代目、明治大学と参加レコード

「お江戸日本橋」が収録されています。

初代・定期演奏会のパンフレット

大妻Folk Songクラブの音楽の原点はここに・・・

第一回目定期演奏会
第一回目定期演奏会

1代目さよならコンサート(卒業コンサート)

初代卒業記念コンサート
初代卒業記念コンサート

Jointコンサートも行われていました。

6代目時代

定演前の秋の強化合宿

7-8代目秋合宿

Sing OutとSoul Musicと

【大妻とSoul Music】

60年代中盤以降、アメリカ生まれの音楽、

Folk、BluesやRockはさらに枝分かれ、洗練されて日本に広がります。

エレキが珍しがられたグループサウンズの流行も終わり、

大学キャンパスには和製カレッジフォークやロックが広がります。

フォーク系では、ヘルメットをかぶらない学生も社会派ボブディランや、

ハーモニーとソロを織り交ぜたPPMやキングストン、ニュークリスティー

のモダンフォークもいいねと、どれも魅力がありいちいち飛びつきます。

渋いシンガーソングライターもセクシーなSoul Musicも同じ土俵で語られ、少ない情報、大きな妄想の時代でした。

レコード店はロックとソウルが大きな売り場を占め始めた70年代が

大妻OG達、学生の頃のお話です。原宿竹下通りを「ローラ・ニーロ」の

アルバムをかかえて歩いていたあの女子大生は、今頃いったい、

何をしてるのでしょう。

 

【 Sing Outから発展】

60年代後半から短い期間でしたが大学は

新入部員の集まりやすいSing Out形式のクラブが流行します。

たいがい一学年が一つのグループ扱いになり、

本番ではユニホームを着て歌います。

関西もそうだったそうですが、

クラブ名にFolk Songを使わず「アメリカ民謡研究会」等と名をつける

学校も多く、放送研究とか旅行研究、漫画研究とみな研究(?)。

ただ、古典を研究し続ける必要ない音楽クラブは服を選ぶ様に

好きな音楽を身にまとい始めます。

電気楽器の種類も増え、海の向こうからの情報も増えます。

ダンス好きは緻密なビートを追い、ディスコで踊ってました。

祭の解放感にも似てます。この頃から一部の女子はBandもやる時代に。

「良妻賢母」が看板の大妻女子大学の課外時間帯、学校は黙認しても、

親御さんはさぞかし心配だったのではと思います。

 

【選曲センス】

Sing Out形式を踏襲した大妻は毎年、前述ニュークリスティー

ミンストレスの「Green Green」から練習を始めます。

しかし1973年12月、2代目定期演奏会@虎の門ニッショウホール

ではクラブ創設からわずか2年にもかかわらず

「Ain't no Mountain Enough」や

「Neither One of Us」を持ち込んだ和田さん。

この選曲センスがずーっと後世のコーチ陣に影響を与えたと言っも

過言ではありません。ギターコードを覚えたての素人達がsoul に

挑んだわけですが、3カポCメジャー7のストロークで

「Neither One of Us」をやりました。

もちろん大妻はソウルだけでなく白人系シンガーソングライターや

日本語もやっていました。ただ、きっと他がやってない「カッコいい曲」

をコーチと共に探し続けていたのだと思います。

 

【エンディングはドラマチックに】

短大の2年間は何かを極めるには短い。

あんな曲こんな歌もやりたかった……

悲鳴じみた思いが定演のエンディング曲に運ばれます。

しかも本番直前に。かつ、何故か長尺ものを持ってきます。

菅さん,田多井さん,ペイさん,駒沢さん…街はクリスマスに近づく季節、

コーチの皆さんは世間離れした顔つきで新曲を持ってきました。

 

いざ、本番の歌中では、部員をドッキリさせる仕掛け演出もあり……

短い2年間の部活の緞帳が下りていました。

(2017年冬/JOY★コンサートに寄せて/Fujii記)

 

【定演/エンディング曲】

≪1972年~1983年12月開催≫

#1/Freedom for the stallion (Three Dog Night)

#2/Ain't no mountain high enough (Diana Ross)

#3/Performance (Allen Toussaint)

#4/I won't last a day without you-Let me be the one(Paul Williams)

#5(=JOY★)/Laving Arms (Milly Jackson)

#6/Where would I go (Shirley Bassey)

#7/Isn't it a shame (Sly Stone)

#8/The Music Band (WAR)

#9Love's in need of love today-Isn't she lovery 

                  -Lately-Pleae don't go (Stevie Wonder)

#10/I know you rider (Greatful Dead)

#11/Ebony&Ivory (Paul McCartney&Stevie Wonder) 

#12/Neko no mori niwa kaerenai (Hiroko Taniyama)

コーチ陣

当時彼は大学一年生・・

チケットノルマをさばこうと、

とあるコンサート会場で

ギターケースを持った

2人の女子大生に

声をかけたのがきっかけ。

 

 

 

 

 

==========

和田将志(KW71)

コーチの立場で大妻Sing Outを作った創設者。

Sing Outが中心だった慶應世界民族音楽研究会(KW)には一瞬の在籍だったが、その後も音楽を極め音楽業界入り。

ビクター~SME(ソニーレコード)退社後も

音楽プロデューサーとして現在も幅広く活躍中。

最近では新たなSing Outチームの再編成も始めた。

 

藤井和貴(KW71)

上記和田氏に誘われ、京極氏と共に日吉から三番町へ通う。

大学を離れ、シンコーミュージック~渡辺音楽出版~SME。

退社後現在は環境系NPOに在職。出前CafeとDJ会が趣味。

 

京極謙(KW71)

大手音楽出版社勤務。

音楽業界内、この苗字だとわかる人はわかる。

現在は退職し悠々自適生活に。

 

菅義夫(KW73)

1974年以降の大妻コーチ陣移り代わりの時期は、立て直しを図り、

音楽と陣営を繋ぐ。歌だけではなく、Back Bandの大妻の流儀を育てた。

 

坂井俊介(明治大学Folk Song同好会)

明治Folk Song同好会在籍中から大妻Folk Song クラブに長年たずさわっていました。選曲からアレンジ、歌の仕上がり迄決して手を緩める事ない、熱情的でファンキーな音楽家。

 

佐藤亮太(明治大学Folk Song同好会)

明治時代クラブの先輩Peiに誘われコーチとして短期間ですが大妻で教えて頂きました。今は郡山で地元木材を使ったギター職人として再デビューを果たし各メディアに紹介され始めた。

 

境珠貴(KW71)

現在、四国・松山市に住んでいるとの噂。

KW'71を2年生早々で和田・藤井と脱退する時、

「Sing Outより競馬が大事」と言い、皆が大激怒したとのの事。E.J.のYour Songを唄う時、必ず目をつぶる。

大妻フォークソングには多くのオリジナル曲を残して去る。

「4月の風に寄せて」「朝発ちの歌」「雨の音を聞いて」・・

和田さんのアレンジでオシャレに変身した。

 

田多井菊雄

横浜国大時代はグリークラブで学生指揮者を務め、現在でも杉並区の合唱祭などではタクトをとる存在。音楽とは無縁の会社勤めをしながらも、20代からキーボードを始め、Bandやジャスコーラスグループで活動中。作曲、編曲でも活躍中。 1970年代後半、大妻にコーチとしても長年たずさわっていました。

 

小沢一夫

スイングするドラミング。近年、宮谷さんの自宅と隣同士になったがお互いコーチの過去を知らなかったという。

昔、小沢(D),菅(B),田多井(key),和田(G),藤井(AG),境(vo)+横田由美子(vo)で一瞬BANDが生まれ、渋谷の屋根裏等でLIVEをやってた。

 

池田俊宏(KW78)
8〜10代目のコーチだった
池田さんは田多井さんとたまたま同じ会社でした。
しかし、いまだにお互い、顔合わせていません。
池田さん定演アレンジ曲
【8代目1979年】
(2年)Work Song/Maria Muldaur
(1年)On and On/Ned Doheny
(1年)蝶々さん/細野晴臣

【9代目1980年】
(2年)Come upstairs/Carly Simon
(2年)Cryin' all night / AirPlay
(1年)The Brand New Tenessee
Waltz /Jesse Winchester
【10代目1981年】
(2年)Come upstairs / Carly Simon
(2年)The Brand New Tenessee
Waltz /Jesse Winchester
(2年)Anna Lee / Pacheco&Alexender

 

駒沢裕樹

プロ中のプロ。ペダルスティール奏者。“音楽哲学”の先生。大妻のコーチは#9以降#12まで。NHK-BSの番組「荒井由実ヒコーキ雲・マスターテープ」の中で、一曲、現在の彼がペダルスティールパートを録り直すシーンがありましたが感動的でした。

 

宮谷真人

駒沢さんと共に活動していたペダルスチール奏者です。

下村誠Bandでも大活躍した。クールで、120%アウトドア派。

世界遺産なんて想像もしていない頃から、彼は小笠原にはよく行ってましたね。

 

西本明

こちらもプロ中のプロのキーボードプレイヤー。

佐野元春withハートランド時代のハードスケジュールからは

開放され、今はいいペースでお仕事中なのでは。最近は

7代目だった伊藤あゆきの最新CDのプロデュースや一緒の演奏活動もしている。

 

 

忘れていけないのは

下村誠

会いたいものだ。

 

もし、2007年自宅火事の時に、もし、

ギターを取りに火の中に戻らなければ、

又会える人のまま・・・だっただろう。

 

彼が自由国民社にいた頃、藤井は出会った。

「“新譜ジャーナル”のアマチュアBand紹介コラムで

いいグループ知らない?」で、

大妻フォークソングクラブ志賀高原の夏合宿に

彼を連れて行ったのがきっかけ。

シングアウト形態もめずらしく感じた彼は

写真を撮りまくっていた。

彼は、この大妻の仲間に

田川律さんも呼ぶ。

田川さん作詞・下村誠作曲「三番町子守歌」が生まれる。

 

彼が撮影した7代目定期演奏会8mmフィルムも

自宅の火事で焼失。

映画「(The Band)ラストワルツ」にも影響された

部員全員インタヴューを交えた作品だった。

ビデオダビングもない時代、

現在は誰も見ることはできない。

 

【記:藤井和貴/2016.3.26】

 

タマキとペイ

9代目と10代目渋谷エピキュラス卒業コンサート(1981年3月)